矢上山

宝嶋寺ほうとうじ
矢上山

虫封じ安産金銀融通

瀬戸内三十三観音霊場 第三番札所

宝嶋寺について

宝嶋寺は倉敷市連島町矢柄の地、大平山山麓の中央にある真言宗御室派の準別格本山です。山号は寿永二年源平合戦の時、那須与一宗高の矢が官女玉虫の扇の的を得て、当山へ漂着し奇譚を示した故事により矢上山(やあがりさん)と称します。「那須与一の矢所蔵(非公開)」。
本尊は平安時代初期の十一面世観音菩薩で秘仏として安置されており、三十三年毎に開扉されます。脇侍は不動明王と毘沙門天、その他歓喜天などもお祀りしています。

寺伝によると平安時代初期の貞観元年(八五九)、弘法大師の法孫になる理源大師聖宝尊師によって開基されました。聖宝尊師は京の醍醐寺の開山で、春日親王の末裔といわれています。のち元慶四年(八八〇)連島矢柄の地に数十の堂塔伽藍が建立されましたが、以後数度の兵火に罹り寺運は興亡をくりかえしました。室町時代には後奈良天皇の猶子熈明親王(任助一品親王)も、戦乱を逃れて滞在された縁を以て後に菊花の幕、提灯等許容の令旨を仁和寺宮より賜りました。中世以降備中談議所として隆盛し、備中七本寺の一つでもあり、徳川期には将軍家より十五石を拝領し、末寺十、末庵二十を有しました。また、明治期には傑僧釋雲照和上が来住しました。

  • 寂嚴和上追慕之碑
  • 寂嚴和上墓所
  • 寂嚴和上
  • 寂嚴堂

    宝嶋寺と寂嚴和上

    歴代住職のうちでは、江戸中期、悉曇の大学者で能書家としても全国に知られていた寂嚴和上が著名です。大阪の慈雲尊者、玉島の良寛と共に三筆(三書僧)として敬仰されています。多くの遺品が寺に蔵されており、仏典聖教他、関係資料五百八十五種が岡山県重要文化財に指定されました。その他に数多の宝物も伝来しています。

    寂嚴は、1702年(元禄15年)備中足守藩士の子として誕生し、9歳で吉備津普賢院の超染に弟子入り、16歳で京都に修学。19歳の時に倉敷市沖の円福寺で初めて住職を務めました。その後も修行・勉学に励み、梵語の研究者として名高い京都蓮華寺の曇寂和上より教えを受け、梵語学者としての才能を開花させました。33歳の頃、和歌山高野山にて弘法大師900年忌が行われた際、寂嚴が記した卒塔婆の文書が『西国一』と称賛されましたが、そのとき『では、東国一は誰か』と切り返したとの逸話も残っています。
    40歳の頃、宝嶋寺の第30代住職となりました。本山である京都仁和寺や成羽寺社奉行との交渉、地域での法事・行事等を執り行いました。そのかたわらで大阪・京都へ上京して、各地で梵語の講義を行ってきました。また研究論文も多数発表しており、寂嚴は生涯を梵語の研究に打ち込んでいたことがうかがい知れます。
    1771年(明和8年)倉敷玉泉寺にて示寂、享年70歳。大平山山上に墓所・寂嚴堂が建立されており、現在においても学問の偉人として多くの方が参拝し、祈り奉られています。地域の人々から愛し、敬われ、郷土の誇りとなっています。

    宝嶋寺と連島

    連島は高梁川の流域、瀬戸内海上の要衝に位置し、古代より海運が栄え県下第二の港として機能していました。室町期には海外琉球交易をめぐって争いが起こり、薩摩島津の大軍と戦った「海賊大将軍」三宅和泉守国秀という人物を忘れてはなりません。仁王門・仁王尊はこの三宅一族の寄進となりました。宝嶋寺は海に生活する人たちの信仰も一心に集めました。